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空を飛ぶ鳥のように 1~8

          【空を飛ぶ鳥のように】

             不動 明


 誰でもそうだと思うが、いろいろな架空の物語に描かれる人物に
感銘を受け、ああいうふうな生き方をしてみたいものだと感じる事
がよくある。そういうことを語る事で、知らずに自分の心の奥底を
さらけ出すというのも、たまにはおもしろいかもしれないと思い、
少し無防備にいろんなことを書いてみようと思う。

 永井豪の「デビルマン」という漫画の主人公が、不動明である。
彼は、デーモンという生物と合体して、体はデーモンで心は人間と
いう存在に変化し、人類の為にデーモンと戦うのであるが、心の弱
い人間どもは、彼の心を踏みにじるような愚行を繰り返し、結局は
自滅していってしまうという物語だ。

 作品の中で、彼は、人間のために、自分が人間であることのすべ
てを捨ててデーモンと合体し、何も知らずに平和に暮らす人々を守
るために、絶望的な戦いを続けるのである。それは、個体としては
素晴らしい戦闘能力を備えた彼と、強大な組織との戦いである。
 いかに強い存在であろうと、誰一人として味方のいない彼の孤独
は、想像するだけでも寒気がするほどに悲しい。しかし、彼はその
孤独に負けることなく、親友の飛鳥了と恋人の美樹を心の支えとし
て、デーモン軍団に敢然と戦いを挑むのである。
 僕は、こういう生き方のできる彼を、うらやましいと感じる。自
分の信じるもののため、愛するもののために戦って、華々しく散っ
て行くのは、たとえ幼稚といわれようが、男の心に眠るなにかを刺
激する官能的な誘惑なのである。

 彼はやがて、恐怖でパニックをおこした人類によって、彼の持つ
強大な力に対する恐怖ゆえに、迫害される。人間というものは、自
分と異質なものを排除する傾向があるからである。群がって生きる
か弱い生き物にとって一番大事なのは、組織の和を乱さない均質な
存在なのである。彼は、その強さゆえに、臆病な人間どもには信じ
てもらうことができないのだ。
 しかし、これだけの迫害をうけてもなお、彼は人間たちのために
一人で戦いを続けた。いつかはわかってもらえると信じて、臆病さ
の故に真実の見えなくなっただけの大衆のために、裏切りものの汚
名を着せられても弁解することすらなく、ひたすら、自分を攻撃す
る人間たちのために、心も体も傷だらけになりながら、人間の良識
を信じて戦い続けた。
 多くの人間は、こういう状況になると、自分が被害者になること
から逃れるために、たやすく加害者の側に回る。作品中でも、人間
でありながら、恐怖に負けて人間を虐殺することで心の平安を得よ
うとする弱い心をもった人々の事が、鮮やかに描かれている。優等
生のおぼっちゃんが、下劣な人間にプライドを傷つけられて、心の
弱さ故にカスのような男の仲間になるのと同じ心理である。僕は、
このような心の弱い人間が、とても嫌いである。

 さて、そこまでひたすら人間たちのために戦い続けた不動明も、
ついに堪忍袋の緒が切れる。当たり前だろう。調子に乗っていつま
でもバカをやっていれば、いつかは愛想をつかされて当然である。
 自分が命をかけて守ろうとしていた生き物が、じつは守るべき価
値などない、弱くて醜くて自分勝手で幼稚で、物事の道理もわから
ぬあほうの集団だと悟った時、彼は自分の存在価値を疑い始める。
 そう、もはや彼にとっては、人間を守るために今まで戦ってきた
相手、デーモンこそが彼の生きるべき世界の仲間であるのだ。

 だが、それでもまだ彼は、恋人である美樹ただ一人のために、デ
ーモンと戦い続けようと決心する。彼は、望めば王として君臨すら
できるデーモンの世界を拒絶し、恐怖と嫉妬と無知ゆえに対立した
人類をも敵にまわし、しょせんは別れざるを得ない異性物の女性を
守るためだけに、戦い続けていく事を決心するのだ。
 しかし、暴徒と化した人間どもは、唯一の彼の心の支えである美
樹を、惨殺してしまう。
 守るべきすべてを失った彼は、悲しみを怒りに換え、自分の死に
場所を求めて、デーモン軍団に立ち向かっていくのである。

 この、最後の戦いに赴く彼の心の空虚な悲しさと怒りは、映画「
野生の証明」のラストで、死んだ少女を背にピストルを構え、ひと
り戦車に向かって進撃していく男のそれと、とても似ているように
感じる。僕は、強くて賢くて優しい生き物が、好きなのだ。


          【空を飛ぶ鳥のように】

             巨摩 郡


 しげの秀一の漫画、「バリバリ伝説」の主人公である。長身でハ
ンサムな高校生が、峠道を走るだけでは飽きたらずにバイクのレー
スに手を染め、ついには500CCのバイクで世界グランプリを転戦
し、チャンピオンになるというストーリィである。よく似たテーマ
に新谷かおるの「ふたり鷹」があるが、あちらと違ってメカニズム
描写は、まったくといってよいほど出てこない。せいぜい、タイヤ
のコンパウンドがどうのこうのぐらいである。逆に、レースを戦う
男の孤独感や焦燥、そして闘志や陶酔といった心理については、ち
ょっと鳥肌が立つくらいに素晴らしく描かれている。

 さて、天才的なライディングのセンスで、主人公はみるみる頭角
を現すのであるが、天才でない多くの人たちの嫉妬や誤解により、
いろいろと困難な事態が発生する。ここで僕が感心するのは、テレ
ビドラマなんかでは、いかにも「悪者」というタイプの人物が敵と
して設定されるわけだが、この漫画では、そういう「悪者」は登場
しないのである。すべて、ごく普通の平凡な人間が、いかにもあり
がちな誤解や扇動によって、その無知と無意識の嫉妬によって、主
人公の敵にまわるように描かれているのだ。
 テレビドラマのストーリィやキャラクターを見聞きするたびに、
脚本家に才能がないのか、あるいは知的水準の低い視聴者をターゲ
ットにしているのかと、毎度のように失望していたのだが、この漫
画を読んで、留飲を下げる思いであった(^^)。

 主人公は、彼のライディングに合わせて特別に開発されたマシン
のせいで、チームメイトの先輩ライダーの反感を買ってしまう。彼
の速さが、そのマシンのせいであると非難されるのである。もちろ
ん、プロのライダーならば、それが事実でないのは、心の底ではわ
かっているはずである。わかっていながら、自分にない素晴らしい
才能を持った若い彼に比べて、はるかに見劣りする自分を、そのま
ま素直に認める事ができないのだ。人は、数多くの可能性のうちで、
自分の信じたいものだけを事実として信じたいものなのだ。プロと
はいえしょせんは凡人、自分の可能性を信じられなくなった男は、
他人の足を引っ張る事でしか、心の安定を得られなくなるものなの
だろう。

 さて、チームメイトたちの嫉妬による中傷と、ゴシップレポータ
ー並の理解しかないモータージャーナリストの、無責任で無知な報
道により、主人公は旧型の戦闘力の劣るマシンで出走を余儀なくさ
れる。彼は、この理不尽な仕打ちに対し、怒り、そして落胆する。
自分が参加してきた世界は、こんなにめめしくてちっぽけな、もの
の道理もわからぬあほぅどもの世界だったのか・・・と、失望と悲
しみと怒りで荒れるのだ。
 だが、それでも彼はあきらめない。絶望的なハンディキャップを
負いながらも、与えられたチャンスをいかすべく、全力をあげて走
るのだ。命を削るようなハードなコーナリングで稼いだタイムも、
ストレートであっという間にチャラになってしまう。だが、彼はぶ
つぶつと文句を言いながらも、決してあきらめる事なく、与えられ
た条件だけをフルに使いこなし、しかもなお、隙あらばトップを奪
おうとして、炎のようなレースを展開するのである。
 告白しよう。僕は古くさい男である。こういう状況を想像しただ
けで、胸がじーんとなってしまうのだ。たかが競争で一番になる程
度の事では感動しないが、孤立無縁の、誰にも助ける事ができない
世界で、常人ならやけくそになって気を抜いてしまう状況の中で、
針の先ほどのわずかな可能性に賭ける・・・というより、目に見え
ぬもやもやした大きな敵に一矢報いるといった、「男の意地」みた
いなものに、たやすく感動してしまうのである。単純なもんだ。

 さて、その後彼は新型マシンを使う事が許されるわけであるが、
ふやけたジャーナリストの正義面した報道によって、彼は「勝つた
めには手段を選ばぬ危険なライダー」というレッテルを貼られてし
まう。どんな世界でも、古くから住み着いてなあなあでやっている
連中がいて、組織の和を乱すものを嫌うものだが、ここでは少し違
う。トップライダーの多くは彼を認めているのだが、裁判官気取り
のモータージャーナリストの思惑によって、彼は糾弾されるのであ
る。ライバルチームの監督は、インタビューにきたジャーナリスト
に向かって言う。

「それがどうかしたのか」

 そう、体を張って戦っている男たちの目から見れば、彼らのとな
える「正義」など、とるに足らないごみのようなものなのだ。僕は、
こういう、ほんまもんのプロの世界が大好きだ。具にもつかぬチン
ケなエリート意識ではなく、自分の住む世界に誇りを持った、卑し
い感情に流されてきいきい騒ぐ事のない精神こそが、真のプロフェ
ッショナルのプライドだと思う。プロというのは、金で仕事をする
だけの生き物を指す単語ではないのだよ。

 さて、全観客を敵に回し、主人公は黙々と走る。絶大な権力を持
つジャーナリストに叩かれ、反論など許されず、何も知らぬ観客に
理不尽な理由で憎まれ、それでもにやりと笑いながら彼は走る。
 だが、ひとたびレースが始まれば、たった一人をのぞいて、誰も
彼には太刀打ちできない。サーキットの中の正義は、速さだけなの
だ。彼のライバルであるもうひとりの天才ライダーだけが、彼と対
等のバトルを演じるが、ほかのすべてのライダーは近づく事さえか
なわない。この、いかなる策略も妨害も通用しないほどの、圧倒的
な実力の差を見せつける事で、彼は、雑魚どもがせっせと築いてき
た彼に対する悪評を、こっぱみじんに打ち砕くのである。そう、強
い男は、卑怯な事なんかする必要がないではないか。

 僕は、こういう正々堂々とした戦い方が、大好きである。


          【空を飛ぶ鳥のように】

              花形 満


 川崎のぼるの漫画、「巨人の星」のわき役である。花形コンツェ
ルンの御曹司でスポーツ万能、いい男で少し不良。でも、卑怯な事
はしない。日本の小説や漫画にはめったに登場しないタイプの、ほ
れぼれするほどかっこいい「ワル」である。彼と比べると、主人公
の星飛雄馬なんか、何にも物事のわかっていない甘ったれたガキに
思えてしょうがない。
 彼は、わざとらしくものものしいギプスで特訓して根性を誇示す
る飛雄馬とは違い、読者の前ですらもめったに努力の痕を見せない。
だが、のんべんだらりと生きている男が、もって生まれた素質だけ
でプロの世界でトップレベルに安住する事など、できるわけがない
ではないか。彼のクールな生きざまの陰には、飛雄馬と同程度の訓
練くらいは当然あるはずである。
 よく、自分の努力をべらべらとさえずりまわる男がいるが、僕は
嫌いである。男の仕事は結果で語るべきだと思う。途中の努力は、
本人には宝かもしらんが、他人にとっては見苦しいだけのあがきに
すぎない。そういう点において、花形満は、まことにダンディでス
マート(英語本来の意味で)なヒーローであると言える。

 さて、彼は、巨大コンツェルンの総帥でありながら、赤貧で学歴
の低い女性、星明子と結婚するのだが、ここまでは金持ちならだれ
でも出来る簡単な行為である。むろん、相手の女性に魅力があれば
こそだが。
 彼のすごいところは、「新巨人の星」でいっそう明らかになる。
それは、この、想像するだけでもぞっとするような異世界に放り込
まれた妻明子が、見事に幸福な花形社長夫人を演じている場面であ
る。ちょっと立派な家へ嫁いだご婦人なら理解できると思うが、こ
のような環境にある無学な妻が、かように幸福に暮らしていけると
いう事は、花形満が、夫として最高の能力を持っているという事で
ある。同時にまた、明子も彼を信頼しているという事でもある。

 この点で、星飛雄馬は落第である。いつまでも死んだ恋人の面影
に逃げ、自分に好意を寄せるスケバンお京を、事もあろうに左門豊
作に斡旋するのだ。ほとんど、自分の女を後輩に譲る、むかしの体
育会のノリである。また、いくら惚れているとはいえ、親友に惚れ
ている女を同情で譲られて結婚するという左門も、僕は好きになれ
ない。好きな男の頼みで左門と一緒になるお京も嫌いだ。
 こんな、ぐちゃぐちゃべちゃべちゃした嫌らしいなれ合いを「友
情」と呼ぶ神経が、僕にはとても不思議に思えたものである。義務
教育を終え、高校を卒業し、「プロ」の世界で働く一人前の男がこ
れでは情けない。女優の鷹の羽圭子に惚れたときも、親友の伴宙太
が惚れていると知るや、遠慮して遠ざけてしまう。それを知った伴
にいたっては、ぽろぽろ泣いてありがたがるという情けなさだ。こ
んななりそこないの甘ったれた男どもと暮らした日には、どんな女
だって愛想をつかしてしまうに違いない。
 思うに、この漫画で星が主人公となっているのは、おそらく、彼
のキャラクターこそが、この漫画を読んでいた世代の男の、もっと
も感情移入しやすいものであったからだろう。言い替えれば、僕た
ちと少し上の世代の男にとっては、星飛雄馬こそが彼らの目指すべ
き理想像であったのやも知れぬ。

 花形満は、星がちまちまと考案した「大リーグボール」なる魔球
を、次々と打ち破る。それは、ライバル左門豊作が金のためだと言
いきるのとは違い、ひたすら自分の楽しみのためである。そう、彼
にとって野球は、金儲けのためのオシゴトでもなければ人生の道で
もない。ひたすら彼の興味を満たすためだけの道楽なのである。
 彼のこの姿勢と比べるとき、左門のなんとちっぽけに見える事か。
野球を金儲けの手段としてとらえるならば、もはやそこには「男の
ロマン」なんぞなくなってしまう。「勝負が第一、金は後からつい
てくる」の花形の生き方は、当時中学生の僕にとっては、浮き世離
れした理想の生き方として心に残ったものである。
 もっとも、僕はプロ野球そのものには何の興味もない。ぐちゃぐ
ちゃしたルールをこせこせと操り、チームプレーと称して小細工を
振り回して勝負がどうのこうのと言われても、僕にはまったくピン
とこないのである。敬遠などというあさましい行為を「よい作戦だ」
などと言うような世界には、少なくとも僕は、ひとかけらの尊敬も
抱けない。
 
 野球しか能のない雑魚どもの誰よりも、花形は野球の技術に長け
ていた。しかも、誰にも見えぬところで自己を錬磨することを忘れ
ず、結果に対しても何の言い訳もせず、ひたすら野球を楽しんでい
た。身分の甚だしく違う明子と結婚し、彼女をみごとに自分の環境
にとけこませて幸福にし、その上でふたたび道楽のために球界に復
帰し、親から受け継いだ財産の通用しない世界で、自分一人のちか
らで一流にのし上がっているのである。これをかっこいいと言わず
して何をいえようか。

 男が楽屋裏を見せていいのは、自分の愛する女だけだぜ。

          【空を飛ぶ鳥のように】

             ハーロック


 松本零士作「キャプテンハーロック」の主人公である。繁栄のピ
ークを過ぎ、人類が種族としての生命力を失いつつある遠い未来、
美しい女性の姿をした植物系生命体「マゾーン」が地球を襲う。そ
れに対して、彼は独りで刃向かうのである。
 それは、文字どおり「刃向かう」だけである。彼は決して、地球
を救うためにとか、マゾーンを滅ぼすために戦うのではない。中世
の海賊船を型どった宇宙戦艦、「アルカディア」のマストにはため
く自由の旗のもと、何ものにも侵されぬ自由のために、自分が自分
であり続けることの誇りをかけて、彼は、彼の率いる仲間とともに、
自分たちの力だけで戦いを続けていくのである。

 これだけ偏った性格の男ばかりあげつらえばわかると思うが、僕
はこういうひねくれたニヒルなおっさんをかっこいいと思う種類の
男である。何が嫌いといって、独りで生きていくことすら出来ぬい
ーとしの男が、くっちゃらくっちゃらとイトミミズみたいにより集
まって、自分は傷つかないところにいながら、ぐしゃぐしゃぐしゃ
ぐしゃと他人の噂ばかりして、何も為しえずにじじいになって死ん
でいくような、そんな哀れでうすらみっともない人たちほど嫌いな
ものはない。腐っても女は女だが、女の腐ったような男はただのま
がいもんでしかない。小綺麗に生きる家畜のような男よりも、手足
がもげていようが病床にあろうが、自分が自分であり続ける意志を
持っている人をこそ、僕は尊敬する。

 さて、ハーロック。あちこちに短編がばらまかれていてややこし
いのだが、ハーロックといえばエメラルダス。海賊船クィーンエメ
ラルダスを率い、ハーロックと同じように暗黒の宇宙をさすらう男
嫌いの海賊が、エメラルダスである。
 彼女にはハーロックほどのこだわりはないように見える。どちら
かというと、好奇心にかまけて旅を続ける猫科の猛獣のような、お
気楽なイメージである。彼女と比べると、ハーロックのほうは肩の
力が抜けきっていないように感じる。ま、男はいつも、女に比べて
子供っぽいもんだわな。
 ハーロックは、エメラルダスをときどき助けている。こう書くと、
マジンガーZとアフロダイエースのような、まるで夫婦が協力して
働いているような、じいさまが好みそうな夫唱婦随の儒教チックな
関係のように見えてしまうが、もちろん違う。
 何ものからも自由でありたいと願うハーロックは、同時にまた孤
独でもある。万能の神が自らを慰めるためにヒトを創らねばならな
かった事からもわかるように、神を真似て創られたわれわれ人間も
また、一人で生きていく事には耐えられないのである。
 ハーロックが自由に生きていくためには、彼が自由である事を見
つめていてくれる存在が必要なのだ。彼とは独立した別の人格であ
り、そして彼のライバルでもあり、また、彼の人格を認めて愛して
くれる、そういう存在「エメラルダス」無くしては、彼の人生は輝
きを失ってしまうのである。チンパンジィの群れでひとりで暮らす
詩人がいれば、それは悲劇だろう。

 エメラルダスは、ハーロックの中の子供っぽい部分を承知の上で、
彼を愛している。そしてハーロックもまた、エメラルダスが自分の
心の底を見切っているのを承知の上で、彼女を愛している。ここが
一番凄いところである。
 男はたいへん臆病な生き物なので、相手が自分より優れていると
感じた瞬間に、萎縮して狼狽し、やがて逆上して威張り出す。賢い
女性ならたぶん経験があると思うが、男と組んで仕事をするときに
は、男の自尊心を傷つけぬようにフォローしないと、自分の仕事を
邪魔されるものである。能力で劣れば、女に馬鹿にされると信じて
いるのだ。こういう男は、たんに「男らしい」だけであって、決し
て「男」ではないのだけどね。

 僕の持っているコミックスの最後は、延々と銀河を埋めつくさん
ばかりに続くマゾーンの宇宙艦隊のシーンで終わり、ついにマゾー
ンの正体は完全に明らかにされない。語られている部分から想像す
ると、どうもマゾーンは人類を産み出した存在らしいのだが、そう
だとすると、ハーロックは神の支配からも自由でありたいと願った
身のほど知らずのバチアタリということになる。
 そういうハーロックを、マゾーンの総司令官である美女もまた、
愛しているように思える。本気で攻撃すればたやすく叩きつぶせる
ものを、まるで母ライオンが子供に接するような攻撃を仕掛けてい
る。彼女のその行為の中には、彼に対する少しばかりの尊敬と、そ
して深い愛情が浮かび上がって見えるのである。

 そしてまた、そういう彼女たちの愛を承知の上で、自分の子供じ
みた心が見透かされているのも承知の上でなお、自分の生き方に自
信を持ち続けて平然と生きるハーロックは、やはりかっこいいと思
う。「少年のような」というほめ言葉は、本当は、けっして成りそ
こないの甘ったれたガキのようなおんさんの、醜い自分勝手なわが
ままに対して使うような、そんな低いレベルの形容詞ではないのだ
と、僕は思うのである。

          【空を飛ぶ鳥のように】

              はぐれ


 ジョージ秋山作、「浮浪雲」の主人公である。いや、主人公とい
うのとは、少し違うかもしれない。狂言回しといったほうが適切だ
ろう。年齢不詳だが、長男新之介の年齢から類推するに35,6と
いったところだろうか。
 圧倒的な剣の腕を持つにもかかわらず、彼はその力を自分の興味
のあることにしか使わない。職業上の権力も、知識や経験について
も同じである。彼よりもずっと劣る能力の男たちが、まなじりを吊
りあげて自己主張に汲々としているそばを、彼はひょうひょうと通
り過ぎる。ささやかな才能を振り絞ってアピールせねば埋没してし
まう程度の男たちにとって、彼の生きざまは、まさに「もったいな
い」の一語につきるのかもしれない。

 僕は、彼の生きざまに、「仏教」を感じる。もちろん、金ぴかの
お仏壇を拝んで肉や魚を食べないぞぉという、釈迦の教えとはかけ
離れた、この国の大昔の権力ぼけのじじいどもが作り替えた、情け
ないほどに隈小に成り下がった「仏教」のことではない。釈迦の説
いたであろう本来の世界観・生命観のことである。
 たぶん、作者は、彼なりに釈迦の思想を吸収し、自分の言葉でわ
れわれに語りかけることを、この作品の中で試みているのであろう
と、僕は勝手に決めつけている。

 世間には、為すべき時に為すべきことをしないままいたずらに歳
をとり、ある日ふと「老い」を自覚し、何も残せそうにもないお粗
末な自分の人生の救いをもとめ、がつがつと「仏教」にすがろうと
するあさましい人々がたくさんいる。
 動機が何であれ、学ぼうという姿勢には好感をおぼえるが、彼ら
のほとんどすべては、最初から理解する事を放棄し、ひたすら釈迦
の思想をアガメタテマツリ、それこそ「念仏」のようにそらんじて
有り難がる事を第一にしている。
 このような、「学んでいる自分」に満足してうっとりしているだ
けの情けない生き物には、当然本当の理解なぞできようはずもなく、
生かじりの見当はずれの「愛」だの「慈悲」だのを、求めてもいな
い人々に押しつけようとして疎んぜられる。

 はぐれは、そのような人々に、ときおり手ひどい意地悪をする。
彼は、優しくはあっても決して甘くはない。振り返ってまわりを見
れば、なんと甘ったるい男たちの多いことか。にちゃにちゃべたべ
たと糸ミミズのように群れ集い、自立できぬ寂しさを慰めあうだけ
の男になど、何ができよう。恐い事があったとき、一緒に抱きしめ
て震えてくれるのは、本来は母親の仕事であって、友情ではあるま
いに。
 そういった、疑うのが面倒だという程度の「信用」しかもたぬ男
たちの対極に、彼は存在する。全幅の信頼をおいて彼に寄り添う妻
と子供たちは、凧の糸のようなものかも知れない。糸は、凧を縛る
鎖ではない。凧が天高く舞い上がるためのちからを、大地の延長と
して凧に与えているのである。

 彼は、そのような彼の家族を、何よりも大事にしているように見
える。浮気をし愛人をこさえても、彼は家族の誰をも不幸にしない。
 これまた、若い女にのぼせ上がって妻子をないがしろにし、果て
は見苦しい醜態を演じるじじいどもと対照的である。物語を読んで
いるかぎりでは、彼のような生き方が簡単に真似できるように思え
るところが、この作者の凄いところなのだろう。
 そういう彼の生き方を許しているものこそ、彼の持つ「魅力」な
のだろう。若いだけの女は、彼を「安全なおじさん」としてとらえ、
そこに父性を求める。一方、過去に辛酸を嘗めた女たちは、彼の生
きざまの裏にひそむものに魅かれ、そこに自分の心をつなぎたいと
願うのである。
 男たちもまた、彼のちゃらんぽらんな生き方の芯にあるものに何
かを見つけ、そこに、憧れに似た何かを感じて、心で触れたいと願
って慕うように見える。

 彼の生き方は、何物にもとらわれることなく自由だ。そして、静
かである。しかしその静かさは、動かない事とは似て異なる静かさ
である。
 常に新しい水が流れ続けている川が、何百年も変わらずにそこに
あり続けているように見えたり、あるいは、超高速で回転し続ける
コマが、何物にも動じずにぴたりと静止しているように見えるよう
に、彼の生きざまには張りつめた静かさが満ちているのである。

 僕は、現実に出会った人生の先輩には、残念ながら、自分の人生
と交換しても良いと思える程の尊敬と憧れを持った事が、ただの一
度もない。だからこそ、この、実在しない人格の中に、自分の人生
の「師」を見つけたような気になって、嬉しく思うのだろう。何の
ことはない、セーラームーンの中に理想の恋人を見つけるほたほた
したおにーちゃんと、良く似たもんだ。ははは。

         【空を飛ぶ鳥のように】

            エイトマン


 平井和正作「サイボーグブルース」を原作とする漫画、「エイト
マン」の主人公である。警視庁の刑事、東一郎は凶弾に倒れ、谷博
士の開発したヒューマノイド・ロボットにその心を移植されて甦る。
最近ヒットした映画、「ロボコップ」のシチュエーションのオリジ
ナルであると言ってもよいだろう。彼は、内蔵された超小型原子炉
を動力源とし、変幻自在の人工皮膚により姿を自由に変え、圧倒的
なパワーをもって犯罪組織に対抗していくのである。

 僕は子供のころ、スーパーマンに憧れた。いや、どちらかという
と「超能力者」のほうか。他人とは違う能力をひそかに駆使し、人
類の平和に貢献できるような人生が送れたら、どんなにか良いだろ
うと夢想したものである。
 こういう願望はかなり一般的なものらしく、僕たちの読んでいた
漫画雑誌には、そういう特殊な能力を持ったヒーローたちが、いっ
ぱいいっぱい活躍していた。伊賀の影丸に鉄腕アトム、鋼鉄人間シ
グマ、ミュータント・サブ、幻魔大戦、サイボーグ009、電人ア
ローにナショナルキッド。特殊な道具でちからを身につけるタイプ
としては、レッドマスクやシルバークロス、鉄人28号にガロロQ、
ジャイアントロボなんかがあった。
 こういうスーパーヒーローものの中にあって、僕が一番感情移入
がしやすかったのは、この、エイトマンである。彼は一般的なヒー
ローと違い、とても暗かった。当時小学生だった僕は、その、彼の
「暗さ」にひかれたのである。

 ソロモン王だったかなんだったか忘れたが、手に触れるものが黄
金になる力を持った男が、愛する娘まで黄金に変えてしまって嘆く
話があるが、僕は、この漫画のヒーローの苦悩を見て、この寓話を
思い出していた。
 当時の少年向けのストーリーというものは、おおむね、世界征服
をたくらむ悪の組織を、正義の味方がやっつける・・・というたぐ
いのものであったが、僕は、その悪人の心理に、いつも疑問を抱い
ていた。それは、何もかも自分の思い通りになるような地位が、い
ったいそんなに素晴らしいものなのだろうかという疑問である。金
や暴力で人類に君臨した男にとって、どんな楽しみがあるのだろう
か。
 当時小学生だった僕たちには、毎週月曜日に「朝礼」という儀式
があった。生徒全員が講堂に集まり、校長せんせの説教を聞いて校
歌を歌うのである。叱責によって強制的に儀式に参加させられてい
た小学生の僕は、壇の上で得意そうに演説をぶつじーさんが、とて
も哀れに思えた。誰も聞きたくなんかないのだよ。強制的に整列さ
せて無理矢理する説教なんて、それがどんなに素晴らしい内容であ
れ、だれが喜んで聞くもんかい。
 そう、それがどんな種類のものであれ、権力によって得られる権
威など、とても虚しいものではないか。右へならい前にならいして
整然と列を組む、社会に抵抗できぬ幼い群れの中にとけ込みながら、
幼い日の僕は、人の心だけは征服できぬことを感じていたのである。

 エイトマンは強い。電磁障害による電子頭脳の撹乱を、ほとんど
唯一の弱点とする無敵のロボットである。超高速で姿を見せずに走
り回り、あらゆる人物に完璧な変装が可能だ。彼は、決してヒーロ
ーとして生きることの期待できぬ、平凡な僕たちの夢であり、憧れ
であるはずだった。
 しかし、彼は、いつも哀しい。桑田次郎独特のソリッドな絵柄に
増幅され、彼はいつも苦悩を友としているように見える。彼の表情
は、笑顔さえもさわやかに寂しい。それは、彼が無敵の強さを持つ
が故の、誰にも理解されることのない種類の「孤独」によるものな
のだろうと、幼い頃の僕は理解した。
 僕は、この漫画によって、「強さ」というものの意味するところ
を、僕なりに理解したように思う。エイトマンがほんとうに強いの
は、その馬力でも性能でもない、彼の心が強いからなのだろう。
 現実を見渡せば、とるに足らないちっぽけな権力を振り回し、自
分より弱い立場のものを踏みにじろうとするにんげんどもがいる。
彼らの心は、哀れなほどに小さく、そして弱い。

 悪意すらもない、善良な弱いだけの心は、その弱さ故に、とてつ
もなく卑劣な犯罪を生み出す。それらの犯罪者を叩きつぶすとき、
彼の心にあるのは、たぶん、憎しみよりも失望か、あるいは深い哀
しみなのかも知れない。

         【空を飛ぶ鳥のように】

             姫川亜弓


 美内すずえ作「ガラスの仮面」の主人公、北島マヤのライバルで
ある。彼女は高名な女優と映画監督の間に生まれ、そのすばらしい
美貌と才能で演劇界の注目を集めつつも、主人公北島マヤの並外れ
た天才に、何度も敗北感を味わう。

 漫画にかぎらず、小説や映画でもそうだが、とかく日本の作品に
おいて、金持ちや美人というのは悪役が多いように感じる。貧乏人
の娘はいつも心の優しい素晴らしい人格で、美人ではないけれども
とても魅力的、いつか素敵な男に見初められて、幸せな結婚をする
・・・といったストーリイは、掃いて捨てるほどある。
 思うに、こういう偏ったフォーマットは、日本の「作家」たちの
中にある、どろどろした嫉妬やコンプレックスのたまものなのでは
ないのかと思う。頭が良くて気だての良い娘が、美人でそのうえ金
持ちだったりした日には、貧乏でぱっとしない自分自身が、哀れで
いたたまれなくなってしまうのだろうか。
 現実の世界では、金持ちの娘で美人だったら、たいていは心が優
しくて素直なものである。僕の知っているかぎりでは、全員、あた
まも良かった。級友のやってることをじろじろ観察しては先生にタ
レこむようなやつはいなかった。

 さて、姫川亜弓。ちょうど、星星飛雄馬に対する花形満のように、
とても公平に描かれていた。「女吸血鬼カーミラ」のエピソードで
は、ライバルをけ落とすために卑劣な罠を張り、取り巻きを使って
マヤを失脚させたオリエを、その圧倒的な才能でこてんぱんに叩き
のめす。「役者は、舞台の上では自分の才能だけがすべて」とつぶ
やく亜弓は、脳天気なマヤの天使のような甘さに比べて、むしろ辛
酸を嘗めてきた壮絶な女を感じさせる。経済的な苦労と精神の成熟
の間には、何の関係もないのかもしれない。
 もちろん、彼女がここまでになったのは、彼女自身の中にある向
上心のなせるわざである。一生かかっても何も成し得ない人間は、
いつも、少し苦労しただけで満足し、「自分には才能がない」「あ
いつらは特別な人間である」といってはリタイアしていく。自己を
ごまかす才能に長けた凡人どもには、この世には特別な人間など一
人もいないということが、いくつになっても理解できないのだろう。

 作中の姫川亜弓は、そんな凡人の弱さや卑怯さを、取り巻きの能
無しどもの前でぼそっと指摘する。彼女にとっては、ろくな努力も
せず自分の才能を見切ったような人間の好意よりも、ライバルたる
北島マヤの動向のほうが、ずっと大事なのである。おそらく、彼女
が友人と認めているのは、ほんとうはマヤただひとりなのだろう。
 自分自身を愛さず、自分の夢すら持てぬ成り損ないに取り囲まれ
て得意になる程度の人間は、どんな世界でも、一流と呼ばれる人の
なかにはいないのである。

 亜弓は語る、自分の努力で手にいれたものでも、人はわたしの生
まれつきの才能のように妬み、そして羨む、と。何の努力も無しに
手に入る才能など無いということが、自分のささやかな努力を過大
評価したがる雑魚どもには理解できないのである。
 為すべき時に事を為さず、惰性で生きてきただけの人々と甘えあ
って流され、自分の甘さや怠惰を優しさや余裕と思い込む、そんな
隈小なとるに足らぬ凡人たちは、みすぼらしい自我が傷つく事を避
けようとして、彼女を特別な人間として「差別」するのである。

 なんと孤独な少女であろうか。彼女は、自分の抱く目標に近づこ
うと努力をすればするほど、対等に付き合える友人を失っていって
しまうのである。いや、そうではない、凡人が友情と信じ込んで慰
められている紛い物は、彼女の前では消し飛んでしまうのだ。そう、
真の友情というものは、亜弓とマヤのような、真剣に人生を生きて
いる者たちの間にしか、本当は存在しないのかもしれない。
 劇団オンディーヌの有象無象の団員の全てよりも、北島マヤひと
りのほうが、姫川亜弓にとっては価値のある友人なのである。

 真に孤独なのは、尊敬も信頼もお互いにしていない、友情の仮面
をつけて群れ集うだけの、怠惰な人々のほうなのかも、しれない。



          【空を飛ぶ鳥のように】

             神 明


 平井和正の作品、「アダルト・ウルフガイ」シリーズの主人公で
ある。彼は、強靭な再生能力を持った狼男で、満月の前後にはとて
つもないパワーを発揮する。彼の一族の生命力に目を付けた各国の
スパイ組織が、彼を研究しようと追い回すのだが、彼はひたすら逃
げ回る。軽薄にして重厚、大胆にして細心、チューンナップしたポ
ンコツブルーバードを駆って都会の夜をうろつき回る、文字通りの
一匹狼ジャーナリストである。

 彼は、伝説の狼男の血をひく、狼人間の一族であり、その肉体再
生能力は、彼の血液に源を発している。彼の血を輸血しただけで、
ふつうの人間は虫歯が生えかわり、近視が治り、その他の肉体上の
欠損はすべて再生する。そのうえ、ケタはずれの怪力や運動能力ま
で身につけるほど、その血の威力はすごい。
 こういう設定の主人公ではあるが、彼は、平井和正の作品の例に
漏れず、ちんどん屋のような格好でマントをなびかせて正義のため
に戦ったりはしない。彼は、自分自身と、そして自分の気に入った
人間のためだけに、行動するのである。
 僕は、こういう個人主義に根ざす行動原理が、とても好きである。
日本の理屈コキは、個人主義と利己主義の区別さえつかぬ未熟者が
多いので誤解されがちだが、個人主義は民主主義の必要条件でもあ
る。自分自身の価値基準を持たぬ付和雷同の輩には、集愚政治以上
のものは持てない。
 
 さて、狼は、外見こそ犬に似ているものの、まったく別の生き物
らしい。筋肉や骨格に大した違いはないものの、その精神構造は別
物であるという。家畜に成り下がって人間の顔色をうかがう犬は、
とかく、卑屈なふんどしかつぎの例えとして引用される。一方、狼
は、平和な快楽よりもプライドを重んじる生き物として、恐れと尊
敬をもって認められているように感じる。
 人間にも、その肉体的構造こそ同じながら、二通りの種類がある
ように思う。ひとつは、プライドではなくただの見栄を持ち、がつ
がつと欲望のままに生き、孤立することへの恐怖から、時には恥を
忘れて所属するグループのボスのご機嫌とりに奔走する、悪人にす
らなれない、ひたすら弱いだけの生き物である。
 もうひとつは、自分の信じるもののためには孤立を恐れず、世界
中を敵にまわしても自分自身の正義を貫く、身の程知らずの傲慢な
大馬鹿ものである。

 神明は、後者の人間である。彼は、いかなる暴力にも脅迫にも屈
しない。それは、決して彼の肉体的な不死身性によるのではない。
弱い人間の常套句に、こういうものがある。それは、「俺は、たし
かに強い人間ではないが、弱さ故に、強い奴にはわからない、弱い
人間の心の痛みがわかるのだ」という詭弁である。
 弱い人間には、他人の痛みなどわかるはずがない。痛みから逃げ
回って生き続けてきた成れの果ての弱虫にわかるのは、自分の痛み
だけである。自分自身の心から血を流すことを恐れず、傷だらけに
なりながらも、自分の弱さを克服して生きてきたものだけが、他人
の痛みを理解できるのである。
 彼は、権力を振り回す卑劣なじじいどもには、一片の同情も見せ
ずに叩きつぶすが、弱いものには優しい。その優しさは、彼の強さ
からきているのかも知れない。なぜなら、卑劣な手段でひとを傷つ
けるのは、臆病な小心者の逃避だからである。弱い人間は、自分を
守るためになら、どんな卑怯で残酷なことでも、平気でするものな
のだ。

 さて、こういう主人公には、たいてい魅力的なパートナーがいる
が、神明のパートナーといえば、郷子だろう。性的な魅力で男を破
滅させる、蛇女である。二人の間に肉体的な関係はないが、そこい
らの夫婦や恋人など比較にならぬ程の深い関係である。体育会系の
脳味噌筋肉男なら、いちころで参らせてしまうような美人の郷子だ
が、彼にだけは手を出さない。彼もまた、フーテン娘とも平気で寝
るような節操無しなのだが、彼女には手を出さない。お互いに、自
分が相手を変貌させてしまうことを恐れているのかも知れない。

 神明のまわりには、同じようなタイプの男が集まる。だがその多
くは、野獣ではなくて野良犬である。同じく群れから離れて暮らし
てはいても、野良犬はいつも飼い主を求めている。彼らの目には、
狼男の楽しむ孤独は、やせ我慢にしか見えないのである。家畜の心
しか持たぬ男たちは、彼を金や権力でとりこもうとするが、彼は一
顧だにしない。狼は、その姿に似ず猫の心を持った猛獣なのである。
 およそ、狼ほど孤独が似合う動物はいないだろう。お節介な白人
どもが世界中に押しつけて回ったキリスト教に駆逐されてしまった
が、日本本来の宗教観では、狼は山々の精霊の化身とされているく
らいである。人間社会に隷属することをよしとせず、自らの誇りを
守りながら静かに滅びていく狼の姿は、徒党を組んで頼りあう人間
どもに比べて、あまりにも気高く、そして儚い。
 狼男、神明は、弱く卑怯で時にはポカをやらかすにんげんたちを、
それでもけっこう愛している。かれらの愚かさや残虐性に、時には
「この、人間め!!」と怒りながらも、わりと優しく見守っていた
りするのである。

 ハードボイルドというのは、気の利いたセリフをちゃらちゃらさ
えずるだけのぱぁの学芸会では、ないのだよなぁ・・・・




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